真剣に向き合わないアウトプットはばれる

先日私が関わっていることについてのAさんのブログ記事を読みました。取材して書かれたそうですが、内容がまー薄いこと薄いこと!そんなの取材しなくても書けるやん!この記事を読んだ人に誤解を与えたらどうしてくれるんだと怒り心頭でした。名誉毀損で訴えたいくらいの怒りでした。

 

怒りそのままに関係者(Bさん)に報告したところ、「Aさんの他の記事も内容が薄いということは読めばすぐに分かる」という返事が返ってきました。そこで冷静になって読んでみるとBさんの言う通りでした。私とは全然関係ない記事もすごく内容の薄いものでした。

 

このことは私に大きな衝撃を与えました。手を抜いて書いた記事ってこんなにあからさまに分かるんだと。素晴らしい言葉を使ってもっともらしく体裁を整えたとしても意味ありません。ばればれ。

 

こうやって内容の薄い記事をどんどんアップしていくことはやればやるほど筆者の信用を落としていくのだと学びました。もしかしたら本人はたくさんブログ更新してると満足しているのかもしれませんが、外から見ると逆効果です。

 

フォロワーを増やすために毎日更新するべきだという説はごもっともです。そう言いながら私だって広く告知しないブログを書いているのですから人のことは言えません。質ばかりこだわってアウトプットの速度が遅くなることが良くないことも分かっているつもりです。

 

それでも私はフォロワーを増やすことを最優先にするのではなく、質にもこだわって丁寧に書いていきたいと思います。

はあちゅうサロンにゆうこすが入会したことをはあちゅうが喜んだら炎上した件

4月の一番最初の募集ではあちゅうサロンに入会しました。サロン内で起こった出来事から考えたことを書きます

 

ゆうこすさんが自費で一般枠で入会されたそうです。それを喜んだはあちゅうさんが、「みんなーゆうこすが入ってくれたよーやったー」という内容の投稿をしたら、サロンメンバーの中にはそれをよく思わない人がいたようで炎上しました。

 

私はこのはあちゅうさんの喜びの投稿を初めて見たとき、えっすごい!あのゆうこすがきたー!と思いましたが、感想はそれだけでそれ以上でもそれ以下でもありませんでした。

 

ゆうこすさんはすごすぎて自分とは異次元の人だと思っているので、私の場合嫉妬する余地がありません。ゆうこすさんと同じ次元にいて追いつける存在だと思っている人がこの件にもやっとして意見を書き込んでいるのかなと思いました。同じ次元にいると思えるだけで私にとっては十分すごいことです。

 

この件でのはあちゅうさんの振る舞いから学んだことが2つあります。贔屓はしてもいいらしいということと、他人の目を気にしないで発言してもいいということです。こう書くと語弊があるかもしれませんね。説明します。

 

はあちゅうさんは目立っている人を贔屓すると発言していました。目立っているということはそれだけたくさん行動しているということだからと。私はいついかなるときも全員に対して平等に接しなければならない。または平等に接しているように見せなければならないと思っていました。これは今まですごく気を使ってきたことの一つです。そうしなくてもいい場面もあるのかと思えたのは大きな学びです。

 

はあちゅうさんは思った通りに発言し、反対意見には「それはなぜ」とストレートに問います。私は発言する前に周りのことを気にしてしまいます。これを言ったことで不快に思ったり、傷つけてしまう人がいるかもと。でも、そこまで周りのことを気にしないで素直に自分の意見を表明してもいいのかもしれないと思いました。私が何か発言して、はあちゅうさんから「それはなぜですか」とコメントされたら、畏縮してしまい、やっぱり声を上げなきゃ良かったー!と思ってしまいそうです。こういうことを恐れている部分もあるのかもしれません。ですが、なぜ?と問われているだけで誰も発言した人を責めてはいません。これが分かっていればもっと勇気を出して自分に正直に発言できそうです。

多謝

私は中身のないただの日記のようなブログが嫌いだ。その日にあったことを書いただけで、読んだ後にだから何?と思うような内容。

 

それに最近voicyの緒方社長のお話を聞いて、発信をするなら、受け取ってくれる人にきちんと価値を与えられる内容にしなければならないと思っている。読み進めていくうちにどんどん内容に引き込まれて、最後は清々しくなるような、読んで良かったと思う記事に時々出会うが、私はそんな記事が書きたい。

 

そんなことを考えていたら、何を発信すればいいのか分からなくなってしまった。悩むよりも行動するべきだということは分かっている。だけど、何を書いていいのか全く分からない。真っ白。

 

悩んでいる今の自分は足踏みしているような状態だ。進みたいのに進めない。周りの人はどんどん前に進んで行くのに自分だけ置いて行かれるような感覚。気持ちだけ焦るが、何も行動に移せない。こんな状態から早く抜け出して、自分の進む道を前のめりで歩き始めたい。

 

 人と話していて色々と気付くことがある。あぁ。今この瞬間の悩んでいる私も私なんだ。この悩みが解決したら新しい自分になるような気がしていたけど、そうではない。この悩みを引きずりながら少しずつ進化していくんだ。

 

別の人にも同じ悩みを話した。そうしたら、この悩んでいる過程から発信すればいいんじゃないのとアドバイスをくれた。それはつまり私が嫌いな日記を書くということか。でも、まあいいか。この日記は公開はするけど、更新したことを告知はしない。人に読んでもらうにはお粗末な記事だから。こっそりと更新する私を許してください。

 

今日の気付きは、悩みや今思っていることを人に話してみると何かきっかけが見つかるかもしれないということ。相手からアドバイスをもらえるのかもしれないし、話しているうちに自分で答えにたどりつくのかもしれない。

 

そして、悩みを打ち明けることのできる人がいるというのはとても幸せなこと。今はたくさんの人にもらってばかりだけど、いつかこの恩を次の人に渡せるように。

私と英語

私は中学生の頃から外国に興味があって、外国人とコミュニケーションするには英語が必要。だから、英語をがんばって勉強して、英文科の大学を卒業した。卒業時の私の英語力は本当にクソみたいなものだった。TOEIC600点代とか?一応大学は英文科は地元で有名だった。がんばって受験勉強した。少し読み書きはできたけど、全然話せなかった。

 

数年後、タイに住んだ。コミュニケーションはほぼ英語。クソな英語力でも使っていれば少しは上達する。1年で帰ってきた時点でのTOEICのスコアは895。これは自信があった。でも、この後はずっと日本で仕事してた。仕事で英語を使う機会は少しあったけど、全然足りない。どんどん英語を忘れていった。10年前のこと。

 

去年OEICを受けた。TOEICのスコアの有効期限は2年だから更新するために。それに今どれくらいのスコアなのか知りたかったから。なんとまさかの885!!かなり点数は下がっていると思ったのでこの結果には驚いた。思ったことは、TOEICのスコアって意味ないなってこと。だって私は本当に英語ができない。思っていることが全然伝えられない。ていうかむしろTOEICのスコアなんて邪魔だ。これがあると周りから英語ぺらぺらだと思われる。こんなスコアだとだと人前で話すの恥ずかしいくらいたどたどしい。

 

はあちゅうサロンには英語を楽しく勉強している人がいる。うらやましい。私は英語を20年以上やっているのに全然できる実感がない。いつまでたってもできるようになりたいのにできないことだ。

 

どうやったら英語が楽しくなるんだろう。英語は私の中ではこんな風に少し苦しいものだ。以前外資系の会社にいたとき、周りは帰国子女とか日本語よりも英語が得意な人がたくさんいる環境で、私は常に劣等感を感じていた。このときの記憶もまだ強く残っているのかもしれない。

 

 

ツイッターでこんなことを書いたけど、私にとっては英語はまだこういう風に思えない。だって拙い英語では記事を書けないでしょ...例えばサロンの記事を英語で書くことになったら私の拙い英語がサロンのものとして公にされてしまう。そんな責任は負えないと思う。

 

どうしたらいいんだろう。できることは英語を練習することだけだよね。うん。自信はそんな簡単につかないけど、やり続けるしかないよね。。。って言いながら日本語でブログを書いてしまう私。英語で書こうとした途端頭が真っ白になって何を書いていいか分からなくなるんです。

 

What important is - do or don't.

It's not can or can't.

 

If you can't, challenge it.

Do what is beyond your ability to acheive the goal.

新しい挑戦 #はあちゅうサロン

4月ですね。春。出会いと別れがあり、新しく始まる季節。

 

私の周りの変化としては、4月中旬に引っ越します。転居に伴い、子どもを今までの保育園に通わせることができなくなり、待機児童となりました。細々続けている私のアルバイトも保育園が決まるまでは休業です。

 

3月上旬に住む家を決め、そこからはあっという間に引っ越しの日取りが決まりました。こんな時期に保活って...保育園に入れない可能性が高いでしょう。引っ越しが決まってからしばらくは、認可と並行して認可外の保育園にも数件申し込みました。

 

ですが、少し落ち着いてきたら、これはいい機会なんじゃないかと思い始めました。立ち止まって今後の働き方を考えるいいチャンス。私は会社だけには頼らない、パラレルキャリアを目指しているからです。現状は平日週5で9時-17時で働いて、帰ってからは家事に追われてやりたいことを一つもできずに寝落ちしてしまう毎日です。結局、認可外の保育園からは入園許可が下りましたが、お断りしてしまいました。

 

こんな中飛び込んできたはあちゅうさんの一連のつぶやき。

素直にやりたい!と思いました。

 

私は北海道に住んでおり、子どもができてからは使えるお金が限られるので、イベントなどは札幌近郊で開催されない限り参加できません。そんな中今回東京まで行こうと思わせてくれたのはこのツイート。

 

それでも、私、本当に何もできることがないんです。しいていえば、丁寧に人と接することや、連絡をまめにすることくらいかな。自分が他の人と比べてできているような気がすることは。それに、イケイケ(死語)の人の近くにいると私なんて...と余計萎縮してしまうタイプです。

 

こんなときに目にしたツイートはこちら。

これがこのもやもやした私に対する全ての答えでした。このツイートを見て私は絶対にサロンに入ると決めました。

 

そうか。自分で決めるとはこういうことなんだ。他人の評価は気にしなくていいんだ。やるかやらないかそれだけなんだ。

 

志望理由は、色々考えてみたけど、すごくシンプルです。「やりたいと思ったから」。それ以上でも以下でもありません。こんな理由じゃ笑われるかなと思いましたが、これが私の正直な気持ちだから。クレクレちゃんになっていないだろうか。何かをしてもらえるという気持ちはゼロではないのかもしれません。甘えている気持ちが混じっているような気もします。ここは自分でもはっきり分からないので正直に書いておきます。

 

もう一つは、仲間が欲しかったから。私は絶対に一人より仲間がいた方がモチベーションを高く保てるし、良いパフォーマンスができるタイプです。これまでもチームワークを大切にして働いてきました。チームのことが好きだと全力で貢献しようと思うんですよね。

 

局は入会前から考えていた通りグローバル局にしました。英語は中途半端であまり話せないし、欧米国への留学経験などの輝かしい経歴はありません。でもやっぱり興味があるのはそこだから。そしてなんと局長をやらせて頂けることになりました!早い者勝ちだったんですよ。私に務まるのかとここでも迷いました。迷っている間に他の人が立候補してくれたらとも思いました。

 

はあちゅうさんは「行動だけが人生を変える」と言っています。今が行動するときだ!と立候補しました。はー緊張します。

 

やりたいことは、子連れで公共交通機関で行けるスポットを日本にも世界にも発信しすること。ゆくゆくは子連れで海外旅行に行って、そのときの情報を発信したりとか。海外の子どもが遊べる場所の情報とか。そもそも子連れで海外旅行って大人だけで行くのと違って色々と不安や疑問があるからそういう情報があったら役に立てるかなとか。ホストファミリーやってみたいなとか。

 

部活としては東南アジア部を作りたい。理由は私が好きだから。でも具体的な活動内容は思いついていませんが笑

 

全然まとまらず思ったこと垂れ流しですみません。もう夜なので終わります。最後まで読んでくれた方がいらっしゃったらありがとうございました!

保活からの脱却 - 働き方改革

すごく素敵な文章を読んだ。
「生命を燃やすことと失うことの違いと思考の関係と、二元論への終止符」
というタイトルの通り、生命を燃やしているかのような力強さ、筆者の方の熱量が直接伝わってくるような文章だ。

 

鶏が先か卵が先か - 私はこの言葉を実際に聞いたことがある。それは、年度の途中に保活をしていたときのこと。仕事が先か保育園が先か、それは鶏が先か卵が先かのようなこと、と見学を担当してくれた保育園の担当者は言った。預け先がなければ仕事ができない、仕事がなければ(点数が低いので)保育園に入れない。運良く一度目の保活が終わり、今は働いているが、今月から二度目の保活が始まった。引っ越しすることになったからだ。年度の変わり目だが、時期が悪い。4月入園の募集は既に終わっているところが多い。電話をかけても対応の冷たさから状況の悪さを実感する。

 

保育園に入れなければ仕事ができない。失業の危機。生活苦。それに、子供は保育園に通わせたい。保育園に通っていた方がプロの保育士の先生に遊んでもらえ、季節に合わせた行事を体験できる。そして何より給食が出るので、栄養面でも安心だ。

 

しかし、これでは思考停止ではないか?私はいつも片方の視点からしか物事を考えていないことに最近気付いた。保育園に入れなければ仕事はできないのか?会社で働くだけが仕事なのか?今の仕事をやめなければならなくなってしまった場合、それはデメリットでしかないのか?

 

小さい子供を持ちながらフルタイムで働くのは私にとっては難しい。物理的には不可能ではない。だが、子供が風邪をひいたときに慣れない病児保育に預けてまで仕事をしたいのか。自分が子供の立場なら具合が悪いときほど慣れた自宅で休みたいだろう。それならば、会社が決めた働き方ではなく、自分で働き方を選択したい。今はその方法を模索中だ。

 

今の仕事をやめれば、自由になる時間が増える。そうすれば、今までやりたいと思いながら日々の家事に追われできなかったことに時間を割けるようになる。子供のために保育園に入れたい?それができないなら私がその場を提供すればいい。毎日公園で外遊びをし、科学館に連れて行き、動物園に連れて行き、子供向けのミュージカルや人形劇なんかもいい。給食?私が努力して作ろう。私は料理をすると気分が悪くなるほど料理が苦手だ。それでも、料理ができることはメリットにしかならない。時間ができたときならじっくり取り組める。

 

そして、生命を燃やし私は何を生み出すのか。答えはまだ見つかっていない。でもやりたいことや、それを実現するために何を思考するのか。これかもというのが見えてきた。なんとなく興味があるとかやってみたいと思っていたことだがすごくしっくりくる。

 

記事には「思考停止に陥ってしまっている人は命の凝縮のエネルギー産物に触れるとよい」とある。そのような方には私は最近見た映画、「グレイテスト・ショーマン」をおすすめする。全てのダンスシーンが涙が出るほど素晴らしい。出演している俳優、制作に関わったスタッフ、とにかくこの映画の全てから命を燃やして生まれたエネルギーを感じる。


http://www.foxmovies-jp.com/greatest-showman/

 

私は今まで思考停止していて、命を失ってきた。出産したことで自分もまた生まれたような気がしている。だからこれからは一生懸命に思考して命を燃やして生きていく。

サービスするときに大切なこと

SUZU(https://twitter.com/suzukyuin)さんの記事を読んで考えてみた。第2弾。

こちらがこの記事を書くきっかけとなった記事。分かりやすい。最高...!

https://note.mu/suzukyuin/n/n91ec9bed9480


そして、私が書いた記事第1弾はこちら。

http://asato.hateblo.jp/entry/2018/02/22/003944


前回は自分がサービスをする場合のことを書いたが、サービスを受ける側だとどうなのか。私は完全に察してちゃんだった。要求があっても絶対に口に出さず、相手がそれを察してくれなければ、気が利かないなどと不満に思いながらその場を後にすることが多かった。

 

先日子供とファミレスに行って子供が水をこぼし、私に大量の水がかかった。私が持っていたのは小さいハンドタオル1枚だけ。焦ってふいたが、どんどん染みてくる。以前の自分だったら店員さんにタオルを貸してくださいと言うことなく、この状況見てタオル持ってきてくれないかなーと思うだけだっただろう。

 

恥ずかしながら、以前の私は若いくせに、金を払っているのだから、正当なサービスを受けるのは当然だと思っていた。一応お礼は言うけど、それはただの形式的なもの。今思えば驚く程の思い上がり。

 

私は出産してから大きく価値観や考え方が変わったのだが、それはツイッターで様々な価値観や考え方に触れたからだ。(当たり前だが)サービスを提供する側にも一人ひとりの人生があり、色々な思いがある。そのサービスを受けられているのは提供する人がいるからなので、その人の労働に感謝し、敬意を持つべきだ。レジで対応してくれた店員さん、バスの運転手さん、日常でお世話になる人々に素直にお礼を言えるようになったのはこれが分かってからだ。自分の要求は黙っていても伝わらないのと同じで感謝の気持ちも口に出さなければ伝わらない。

 

こんな出来事があった。私は中島健人くんのファンだ。彼は昨年のクリスマスに「未成年だけどコドモじゃない」という映画に主演した。少女漫画原作の若いアイドルが出演している映画で、今まで前売券を買いに来たのは若い人が多かったのだろう。私は張り切って公開前に映画館に前売券を買いに行った。私が「『未成年だけどコドモじゃない』の前売券1枚ください」と言うと、店員の若い女の子は「小人1枚ですか」と聞いた。私が自分の子供のために前売券を買いに来たとでも思ったのだろう。彼女なりにこちらのことを想像力を働かせて言ってくれた一言だと思ったので、嫌な気持ちにはならなかった。素直にありがとうと思ったし、その思いを口に出して伝えた。

 

一方お菓子屋さんですごく違和感を感じたことがある。おかきがテレビで取り上げられ、人気になり品薄になったというお店。そのおかきは詰め合わせの中の1品ということだったが、単品で買えるのかを知りたかったので、店員さんに質問することにした(以前の自分なら遠くから見ているだけで、質問することはなかった)。店員さんの目の前にはカウンターには大きく「おかきは好評のため品切れで入荷未定」と書いた立て札が置いてあった。

 

私:おかきは単品で売っていますか。

店員さん:おかきは現在品切れで入荷未定です。

私:分かりましたが、いつもは単品でも売っていますか。

店員さん:あの、現在品切れです。

私:今品切れなのは分かっていますが、単品で売っていることはありますか。

店員さん:いつもはありませんが、期間限定で単品で用意している場合があります。ですが、今は品切れで入荷未定です。

 

見事に会話がかみ合わない。店員さんは私の知りたいことに答えるのではなく、自分が話したいことを話しているだけのように聞こえた。


もう一つエピソードを紹介したい。引っ越しすることになり、保育園を探さなければならなくなった。家から一番近い保育園に見学のお願いのために電話をしたところ、「定員いっぱいなので、申し込みされてもしばらく入れないと思います」と言われた。こんな時代だし、市役所にも相談しているし、すぐに入園できるなんて少しも思っていない。私はこの一言を言われてすごく嫌な気分になった。言わなくて良い一言だと思った。他の保育園は同じ状況だろうに、こんなことは一言も言わず見学のお願いを受け入れてくれた。


サービスを提供する側になると自分を守るため、自分が言いたいことを主張してしまいがちだ。自分にも覚えがある。だが、相手の言いたいことを理解しようとすること、これは本当に言うべきことなのかと自問自答しながらコミュニケーションをとることが大切だ。


サービスをするときに必要なことは相手に敬意と関心を持つことだと思う。そして、相手にとって価値のあることをすることだ。関心を持って会話をすることで相手の要求が分かってくることがある。それはサービスのために会話をすることとは反対の行為だ。サービスとはつまり人と人とのコミュニケーションではないだろうか。